昭和44年06月19日 夜の御理解



 だいたいは合楽会でございますけれども集まりがない。その事を神様にお届けさせて頂きよりましたら、あの今から咲きますあのカンナという花がありますね。大きなあ花の赤と黄の花があります。あのカンナの花を大きな壺に生けてあって、そのカンナの葉をね、わざとこう曲げたり折ったりして、ある所を頂いたんですけれども、頂いて思う事ですね、これはあのう育てるとか教えるとかと言った様な事を場合、あぁもうあれは駄目だと言った様な思い方は、本当に駄目になってしまうということですね。
 ですからあのう例えばなら今日合楽会の方達が集まっておりませんけれども、それでもやっぱりあそこ4、5人、非常に熱心毎朝あぁして朝の御祈念に参ってこられる方達があるくらいですけれども、それがなんかの都合でもあろう、あのまぁ神様の御都合は間違いないですけれど、もうこりゃ合楽会は駄目だと言う様なその、普通考え方をするもんです。これは例えばお互いの場合もそうでしょうが、いろんなもうあの人はもうあそこまで性根は腐ったんだから駄目だとこう。
 そういうそのう言うそう意味捨てるような考え方がいけない。神様のきかんに叶わんね。例えばこれはあやめとかあるいはあぁいう物を生けます時にねぇお花に。わざと葉をひとつ折ったり曲げたりして、却ってその風情を造るでしょうが。そういう神様の御都合なんですからね。例えばカンナならカンナというポンとこう活けるのじゃなくて、葉が一枚か二枚かがこう曲がったり、またはこう折れたりしておるような所をわざわざ造る様に、神様はそういう御演出があっておるのを。
 まぁもし私がですはぁもう合楽会は駄目だと私がいったら、本当に駄目になっちゃうんです。それではやはり育たない。これはあのう私共が少しでも信心の事だけじゃありませんけれども、信心を少しでもこう分からせて頂いて、それを後からそれをこの人に渡したい、この人に分かって貰いたいという人達に、こうまぁ教えて貰う教えさせて貰う訳ですね。それでももうこの人はもう頭が悪いこの人はいけない。もうこの人は辛抱強くないから駄目だと、言う様な見方をしたらいよいよ駄目になってしまう。
 それが神様の機感に叶わん。私今度のあぁこれは合楽会はもういけないなぁと、言うならちょっと思いがさせて頂いて、初めの間はもう合楽会ち言うたら、もうやっぱり珍しいもんですからね3、40名位集まられましたんですけれど、最近まぁ熱心な方達だけがまぁ10名位集まって、それでももう時間の経つのを忘れて、もうあの会だけですね、12時すぎまでもう立たれようとしない位に、そのう熱心に信心話をされたり聞いたりされるんですけれども。
 今日はどういうご都合でしょうか一人も見えてない。そう言う様な事を私は思わせて頂くんですけれども、そして改めて思うですね、いつも総代さんのお届けの中に、その日の会合のお届けがあるんですけれども、今日は合楽会と言う事を私もうっかり忘れておった。で若先生が今日は合楽会ですよ、ほんに今日は合楽会じゃったと思うて、ここで又改めてお届けさせて貰ったんですけれどもね、お取次ぎの働きと言った様な事に。
 いかに総代さん方がその日その日の行事についての行き届いたお届けがいかに大事かと言った様な事を、また改めて感じますですね。そういう意味にです、これはもうあの人はもう駄目だと、もうあれには構わんと言った様な考え方はね、貴方もまた相手の人も駄目になってしまう事になるのですから、はぁーこれは神様の御都合だとしてね、わざと神様が腰を折らして下さるんだという所をね、私分からせてもらいもう私共がそこに本当の、私共が腰を折っちゃならないということですよね。
   どうぞ。